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カルロス・ゴーン退任に見るニッサンの過去と現在

(出典:Mario Tama—Getty Images)
(出典:Mario Tama—Getty Images)

約17年ぶりにトップが交代する—日産自動車の最高責任者(CEO)であるカルロス・ゴーンが退任します。後任は4月1日付で共同CEOを務める西川廣人(さいかわひろと)氏となります。

 

超多忙な経営者としても有名なゴーンは40代という若さでニッサンのCEOに就任しました。過去に2兆円の負債を抱えていましたが、わずか4年で完済し、経営の立て直しに成功。昨年には燃費不正問題で窮地に立たされていた三菱自動車を傘下におさめるなど、その敏腕ぶりは健在と言われていました。

 

退任後はニッサン、三菱、そしてCEOを務めるルノーを合わせた3社のアライアンス拡大に専念するとのこと。63歳となったゴーンは今後どのような未来を描くのでしょうか。

 

 

目次

  1. 1 ニッサンの歴史 ~創業から資本提携まで~
  2. 1-1 「技術の日産」の確立
  3. 1-2 バブルの崩壊と経営危機
  4. 2 社員が作った経営再建計画
  5. 2-1 カルロス・ゴーン就任
  6. 2-2 日産リバイバルプラン
  7. 2-3 2兆円を4年で返済
  8. 3 今後の展望は?

 

1 ニッサンの歴史~創業から資本提携まで

1933年、鋳造業を営んでいた鮎川義介によって自動車製造株式が設立され、翌年に日産自動車と社名変更されます。乗用車ダットサン※を生産するも第二次世界対戦に伴い一時は生産中止。戦後、横浜に本社を移転し、生産を再開します。

 

・略年表

1910年 鮎川義介(日産自動車創業者)、戸畑鋳物株式会社を設立
1911年 快進社自動車工場設立。自動車産業のさきがけとなる
1914年 ダット自動車完成
1925年 快進社、ダット自動車商会を設立
1931年 ダット自動車が戸畑鋳物の傘下に入る
1932年 ダットサン(DAT SUN)誕生
1933年 自動車製造株式会社を横浜に設立
1934年 日産自動車株式会社に社名を変更

 

・日産ダットサン1号車

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(出典:日産)

 

 

1-1 「技術の日産」の確立

1950年代に入ると、イギリス・オースチン社と技術提携契約を締結。またロケットの研究開発に着手するなど技術力の底上げに積極的に取り組みます。
1960年には米国日産、翌年にはメキシコ日産、66年には豪州日産を設立。マーケットを世界中に広げ、1972年には生産累計が1000万台を突破しました。

 

 

1-2 バブルの崩壊と経営危機

1980年代に入ると、バブル景気を背景に高級車種のシーマやシルビアなどが次々にヒット。宇宙開発事業ではH-Ⅰロケットによる試験衛星の打上げに成功し、順調に業績を伸ばしていました。

 

しかし、バブルの崩壊とともに高級車やその他車種の売れ行き不振となり、90年代後半には円高の加速により輸出も伸び悩みます。また、デザインが若者にウケないなど日産車が市場で受け入れられない状態が続いた結果、99年までの8年間で7回の営業赤字を計上します。有利子債務は2兆円を超え、新型車を出せる状況ではなくなり経営危機に陥りました。

 

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(▲1999年の最終利益が6844億円の赤字 参照:MarkeZine

 

※ ダットサンは、1914年に快進社が「ダット1号車」を製造した車種。DAT(ダット)は快進社への出資者3人のイニシャルから取られ、DATの「息子」を意味する「DATSON」が誕生。しかし、「SON」は「損」を連想させるため、発音が同じで太陽を意味する「DATSUN(ダットサン)」に改められ、昭和7年の10型から採用。ダットサンは、おもに日産自動車の小型車に使われ、日本のみならず、海外でも親しまれるブランド名となっている。(参照:NISSAN HERITAGE COLLECTION

 

 

2 社員が作った経営再建計画

経営危機に陥った当時、ニッサン・塙社長とルノー・シュヴァイツァー会長による会合は秘密裏に行われていました。そして1999年3月、最終利益で6844億円の巨額赤字を計上した日産自動車は、ついにフランスの自動車会社ルノーと資本提携に至ります。ニッサンはルノーから資金を受け入れることに合意し、事実上、吸収合併される形となりました。

 

2-1 カルロス・ゴーン就任

ルノーは当時副社長を務めていたゴーンをニッサン再建のキーマンに指名。ゴーンは45歳という若さで最高経営責任者(CEO)となります。

 

レバノン人を両親に持つゴーンは、ブラジル生まれです。大学卒業後は大手タイヤメーカーのミシュランに就職。製造部門に配属されたゴーンは、新入社員でありながら製造工程の合理化を上司に訴えて実現させるなど着実に実績を積み上げていき、若干26歳で工場長に就任しました。

 

その後、30歳で南米ミシュランのCEOに就任し、膨大な赤字をたった1年で黒字化させます。北米ミシュランも同様に再生させ、その手腕を買われて42歳の時にルノーの上席副社長職にヘッドハンティングされました。(参照:テレビ朝日

 

 

2-2 日産リバイバルプラン

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(▲1999年、リバイバルプランの説明をするゴーン社長 参照:Forbes

 

コストカッターの異名を持つゴーンはまず人件費のコストカットに着手しました。グループ関連企業を含め人員を21,000人削減。さらに購買コスト削減のために下請企業を約半分に減らしました。

 

また生産能力の適正化を図るため、国内の車両組立工場の一部を閉鎖。国内の生産能力を従来の240万台から165万台へと減少させました。(参照:V-car)

 

この日産リバイバルプラン※と呼ばれる再建計画はすべて日産社員がつくったものだとゴーンは語ります。

 

「色々な国で会社のリーダーとして働いてきた経験から本当に会社を変えられるのは、中にいる人々だとわかっていた。変えるのはあくまで日産の人々だった。だから、細心の注意も払った。ルノーの人間にはフランス人だけで固まって行動しないようにと指示を与えたこともある。非常に難しい仕事だっただろう。だが、開かれた精神の持ち主だけを選んだおかげで、フランス人らはすぐに日産になじみ、歓迎された」(参照:日産自動車ニュースルーム

 

 

2-3 2兆円を4年で返済

社員と共にさまざまな再建策に取り組んだ結果、2003年3月期連結決算で、売上高は前期比10.6%増、営業利益は50.7%増、当期利益は33.0%増となり、売上高、利益ともに過去最高を更新しました。約2兆円あった有利子負債は、2003年3月末で完済となりました。(参照:asahi.com

 

・利益と株価の推移

りえき

(参照:hobby life

 

目標を1つでも達成できなかったら辞任すると公言していたゴーンは00年6月に社長、01年6月にはCEOに就任することになります。

 

※ 日産リバイバルプランは1999年10月に発表し、2000年4月から実行された下記に掲げる3つの必達目標のこと。1)2000年度に連結当期利益の黒字化を達成、2)2002年度に連結売上高営業利益率4.5%以上を達成、3)2002年度末までに自動車事業の連結実質有利子負債を7000億円以下に削減。これらを全て1年前倒しで達成した。(参照:日産自動車)

 

 

3 今後の展望は?

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(▲燃費問題で謝罪する三菱自動車の経営陣 参照:huffingtonpost

 

昨年10月、ニッサンは燃費不正問題を起こした三菱自動車の株を34%取得し、筆頭株主となりました。また、三菱自動車の新会長を兼任するゴーンは世界トップ3の自動車グループの一つになると明言。ルノー・日産アライアンスをさらに強化する方針を掲げました。

 

ゴーンは自身の退任について
「この18年間育ててきた日産のマネジメント層には、同社の事業および戦略的な目標を達成する上で求められる能力と経験があると信じています。先に三菱自動車の取締役会長に就任したこと、そして次の日産の定時株主総会の開催を控えていることから、今こそ、西川廣人氏に日産のCEO職を引き継ぐのに適切な時期であると判断しました」
と語りました。また自身の今後の身の振り方については

 

「私は引き続き日産の取締役会長として、またルノー・日産・三菱自動車のアライアンスの枠組みの中で、監督・指導を行っていきます。この変更により、私はアライアンスの戦略面および事業上の進化により多くの時間と労力をかけ、パートナー各社に、アライアンスの持つ規模による競争優位性をいかんなく享受させることができます。今後も、アライアンスの進化・拡大をサポートし、時・場所を問わず、必要とされるときはいつでもパートナー各社の役に立てるよう、サポートしていくことを固くお約束します。」(参照:日産自動車ニュースルーム
と述べました。

 

強力なリーダーシップで約17年日産自動車を引っ張ってきたカルロス・ゴーン。カリスマが第一線を退いた今、ニッサンの真価が問われようとしています。

 

 


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